2012/09
外国人シリーズ・エピローグ君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人21]

若き薩摩の群像

 「我が国近代化に貢献した外国人」と銘打ったこのシリーズもいよいよ最後となった。そこで日本の科学技術の発展について整理してみたい。

近代化を導いた海外情報
 まず、江戸時代は鎖国により海外情報は抑えられていた。海外情報が制限されていたため、独自の文化が発展した面もある。現在は制限どころか情報氾濫の時代ともいえ、中には良くない情報も沢山ある。
 最初にヨーロッパから我が国にやってきたのはポルトガルやスペインの宣教師たちだった。江戸時代になって鎖国とキリスト教布教禁止となってからは、長崎の出島を窓口としたオランダ貿易と、中国貿易が海外からの情報源となった。
 幕末は蘭学者たちが、オランダ語に翻訳されたヨーロッパの書物を翻訳し、中国語に翻訳されたヨーロッパ事情を入手した。しかし弱体化した幕藩体制下では、学者らは自ら近代化への舵取りはできなかった。
 1854年の日米和親条約、1858年の日米通商修好条約締結により、尊王攘夷運動と佐幕開国運動が激突する中で、幕府は崩壊し明治維新となった。
 和服・ちょんまげ・二本差し・草鞋ばきの江戸時代から、僅か十数年で洋服・散切り頭・革靴姿に変わり、尊王攘夷論は尊王開国論に変った。
 富国強兵のために海外の技術や制度へ傾斜していった明治維新は、驚くべき革命であった。これ程の変革がどうして可能であったのだろう。

技術導入を促した人材交流
 維新政府は中央集権化による我が国近代化を目標に掲げて、富国強兵策と殖産興業政策を前面に打ち出した。これを支えたのが、幕末に海外に渡航した者や留学生、密航者など欧米の事情に通じたテクノクラートたちであり、彼らによって招聘された所謂「お雇い外国人たち」である。
 幕府は1860年に日米修好通商条約批准のために総勢80名を超える使節団をアメリカに派遣した。その後、1862年に36名の遣欧使節、1863年に34名の遣仏使節、1866年に遣露使節、1867年にパリ万博参加の遣仏使節を派遣し、5回の欧米派遣者は260名を超えている。
 留学生も派遣している。1862年に榎本武揚、赤松則良、西周、林研海らをオランダに留学させ、1865年にロシア留学生、1866年にはイギリス留学生、1867年にはフランス留学生を派遣し、46名が留学した。この他に、長州藩、薩摩藩、佐賀藩などが藩士を密航させている。長州の伊藤博文、井上馨、井上勝、薩摩の寺島宗則、五代友厚、森有礼、佐賀の石丸安世、馬渡俊邁など明治に活躍した人たちはみな、イギリスへの密航経験者である。
 明治維新後、日本から各国への留学生を見ると、明治4年にはイギリス107名、アメリカ98名、ドイツ41名となっており、イギリスが第1位ではあるが、アメリカへの傾斜も特徴的である。

お雇い外国人のトリビア
 明治5年の政府雇い外国人213人の内、工部省が153人、次いで文部省の24人であるから、殖産興業と教育に力を入れていた様子が窺われる。工部省のお雇い外国人はイギリス人105人、フランス人33人である。イギリスは鉄道・灯台・電信技術者が中心で、フランスは造船技術者である。
 明治7年になると、政府雇い外国人503人と倍増し、工部省228名、文部省77名、海軍省66名、陸軍省38名、大蔵省と内務省が27名、外務省14名と各省庁に外国人が増えているが、相変わらず工部省が抜きんでて多い。
 国別でみるとイギリス269名、フランス108名、アメリカ47名、ドイツ37名となり、アメリカ・ドイツの増加は文部省が顕著である。
 政府雇い外国人は明治7年の500人強が最高で、明治13年には半減し、明治27年以降100人以下に順次減少している。
 これに対し、民間での外国人採用は明治10年には457人、明治12年には509人となり、明治30年には765人を最高として、雇用数は高い状態が続いている。

主導権を守り続けた政治
 これ程多くの外国人を各分野に投入しながら植民地化されなかったのは、一応、政治が主体性を持って運営してきたことと、それぞれの分野でトップを外国人に渡さなかったからであろう。
 実際には日本人の指導者とお雇い外国人技術者との熾烈な争いや競争があった。大蔵省造幣局では全権を握ろうとするキンドルと、これを排除する遠藤謹助の抗争があった。灯台建設では海洋国家イギリスが全てを取り仕切るのが最善策とするブラントンと、日本の技術者たちが主導権争いしている。鉄道建設では鉄道敷設技術者、機関車製造・保守技術者、機関車運転要員の養成を図り、イギリス主導から徐々に日本人主導にすすめた井上勝の努力がある。
 一方では、豊かな自然の風景と日本人に好感を持ち、日本女性と結婚して生涯を日本で過ごした人たち、新規業務に邁進しながらも慣れない日本で、志半ばで亡くなった人も多くいる。
 外国人たちは日本に大きな足跡を残してくれているが、震災や戦禍、あるいは戦後の開発バブルでその多くが失われている。最近は産業遺産や近代化遺産を保全する活動を盛んになってきており、喜ばしいことである。
 本稿で取り扱った外国人20人は、航海士ウイリアム・アダムスと日本に開国を迫ったペリーを除くと、殆どが技術者と教育者・医者たちである。
 発展途上国の明治日本が人材育成とインフラ整備を欧米先進国に学ぶ姿は、まだまだ興味の尽きない主題である。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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